ねぇ、どんな気持ちで居るの? いかに心もとなくおぼすらん。 〈本文〉 和泉式部(いづみしきぶ)、保昌(やすまさ)が妻(め)にて、丹後に下りけるほどに、京に歌合(うたあはせ)ありけるに、小式部内侍(こしきぶのないし)、歌よみにとられて、歌をよみけるを、定頼中納言(さだよりのちゅうなごん)、たはぶれて、小式部内侍、局(つぼね)にありけるに、「丹後へ遣はしける人は参りたりや。
当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、四条中納言は小式部内侍をからかったのだが、小式部内侍は見事な歌で答えたのだった。
今の京都府宮津市。
覚えときや。
そこで、同じ歌合に招かれていた藤原定頼が、意地悪にも「歌は如何せさせ給ふ。
小式部内侍は和泉式部の助けが無ければ、歌など詠めないだろうという気持ち。
使者は帰って来ましたか」などとからかったのだが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだ。
これ、さらっと書いてあるけど、めっっっちゃ凄いことなんやで。
電話も、ケータイもスマホもない。
しかも、この小式部。
このエピソードは非常に有名になり、後の多くの物語や研究書にも引用されました。
これを即興で詠むことで、小式部内侍は、これまでの歌が全部自分の才能の賜であり、噂はデタラメであることをずばりと証明してみせたのです。
ふっさふさで長くてまっすぐなんは、美人の証拠。 だれかが上の句を詠み、別の者がそれにつなげて下の句を詠む遊び。
家柄が良くても、「あの人、歌が下手で出世したってことは、コネでずるしたのよね」「ああ……お父様、身分が高いから……」「あんなに歌が下手なのにねぇ」と噂になることは避けられません。
けど、そこでぐっ……と耐えたり、素直に若者の才能を称賛するのが大人な対応だったんですが、大人に成りきれていない人がここで一人登場します。
皆さん夏休みの宿題の進行状況はいかがでしょうか。
経歴 [ ] 母の和泉式部は小式部内侍を妊娠した時に郷里の湖山へと戻っていた。
小式部内侍はもともと病弱やったんか、病気で伏せるねん。 「天橋立」という体言(名詞)でしめくくられています。 簡単に言うなら、紅白歌合戦。
19教通との間には、範永との間には娘をもうけている。
若干十五歳前後の今で言うなら、中学校三年生。
」と声をかけて、部屋の前を通り過ぎられたところ、 小式部内侍は、御簾から半分ほど出て、直衣の袖を引き止めて、 大江山から生野を通って行く道が遠いので、まだ天橋 立を訪れていないし、母からの便りも見ていません。
つまり和泉式部から見たら、今まさに自分の腕に抱いてる孫のことを指してるんやな。
ただ、彼女について調べていく中で、 教科書では書かれないエピソードも知ることとなりました。 子どもは、何にもまさるのだ・・・」 これな。
前から自分の実力がちゃんと評価されてないなとは思っていたんです。
しつれーな奴だと思わない?。
」 とばかり言ひて、返しにも及ばず、袖を引き放ちて逃げ られにけり。
なので、皆必死です。 定頼はさだめし驚いたことでしょう。
小式部、これより歌よみの世おぼえ出で来にけり。
で、言うだけ言ってすっきりした定頼さん。
そんでな、顔も見えん相手とやり取りするんは、 和歌ぐらいしかない。
歌合は大事なイベントです。
訪れる場合は、JR山陰線を乗り継ぎ、宮津線天橋立駅で下車します。 いっしょに歌合に参加するはずだった和泉式部がいないので、心配する気持ち。
歌合の歌人に選ばれた小式部内侍をからかった定頼の中納言!返り討ちに! 歌人として有名な和泉式部さんの娘、小式部内侍さんは当時、自分の歌がうまいのは母の和泉式部が代わりに詠んでいるからではないか?と人々から疑われていたという。
藤原定頼です。
そんとき、和泉式部が詠んだ歌がこれや。