永徳は細画(さいが)と大画(たいが)のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。 実物を観た感想 まず、チケットを見せて足を踏み入れるといきなり左手に現れるのでビックリします。 「洛中洛外図屏風より」祇園祭 京都祇園祭は当時からにぎわいを見せていたお祭りで、14世紀頃には山鉾の数が58基あったそうです。
17左隻では、松樹周辺に4人の仙人高士が遠方に目をやっている様子がわかります。 岩場を歩く雌雄の獅子の堂々たる姿を、力強い筆づかいで描いた力作。
家旧蔵。
主に朝廷からの依頼で、大和絵と呼ばれる日本古来の画風を中心に活躍しました。
「松林図屏風」の制作 絵師として立て続けに活躍をはたした長谷川等伯でしたが、天正19年(1591年)に交流のあった千利休が亡くなり、文禄2年(1593年)には跡継ぎと考えていた嫡男・久蔵が亡くなるといった不幸に相次いで見舞われることとなります。
8cmという巨大な屏風で、紙本金地着色の鮮やかな色彩。 長谷川等伯の最期 有名絵師となった長谷川等伯は慶長15年(1610年)、徳川家康から要請を受け江戸に向かいました。
四季山水図 六曲一双 - 伝永徳筆(左隻のみ、右隻は狩野元信筆)• 翌年の慶長10年(1605年)には法眼に叙せられ、一地方絵師であった長谷川等伯は町の有名絵師として京都における有力者となりました。
悲運だったのが、彼が命がけで製作にあたった安土城や大阪城が失われ、作品も失われてしまったこと。
両者で水面を見ている様子が見えます。
享保17年は信長150回忌の翌年にあたり、法要で用いたことが改装の契機となったと見られる。
16世紀も進むと、2つの絵画の様式が、前の時代にお話した風俗画に加えて歴然と現れ始めます。
狩野永徳とは当時画壇のトップにいた絵師で、長谷川等伯のような地方から進出してきた絵師に宮中での仕事を取られることは非常に屈辱的なことでした。
しかし、道中で病を患い江戸に到着した2日後の慶長15年 1610年 2月24日、72歳で亡くなりました。
豊臣秀吉は、織田信長以上に次々と城郭、御殿、寺院を建てていきそのすべての障壁画などを狩野永徳に命じていきます。 ただ1570年代まで活躍していたことは間違いない)などの門人があり、ことに宗家を継いだ松栄は、穏やかで温かみある佳品を残しているが、真に元信の画風を受け継いだのは孫の永徳であった。
10永禄9年(1566年)に創建された大黒寺聚光院客殿の障壁画が「梅花禽鳥図」です。 また、狩野探幽による紙中極(しちゅうぎわ)があることも注目されています。
そこで2012年から2年の歳月をかけて修理が行われ、真ん中から半分に分けて、八曲一隻だったものを四曲一双に改装。
195-209。
永徳は等伯の仕事を奪ったということですね。
細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている。
守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。
点線は養子。
三好義継が父長慶(ながよし)のために建てた聚洸院の襖絵の最初の場面が春の景になります。
おそらく藁筆による若々しく力強い隆々とした梅の木や、真っ直ぐに伸びる凛とした枝の描写は、永徳の瑞々しい生命感に溢れている。
しかも「長さ10,20丈もある松梅や3,4尺もある人物」を粗放な筆法で描き,水墨画の時は藁筆を使う「大画」は新意に満ちた怪々奇々のだったと評されている。 シクレは実用というよりはコレクター用だな。
17松木寛 『御用絵師狩野家の血と力』 、平成6年()• 享年48歳でした。
この記事のまとめ 長谷川等伯は若いころから絵の才能を磨き、上洛後は一時狩野派に所属しました。
割りと真面目に「やばい、喰われる」と感じます。
「仙人高士図」(右隻)では、童子を従えた高士に釣りをする老子。
その証拠に永徳が秀吉の命により制作していた「雲龍図」の雲を描き終えたところで重病に倒れた際、その続きを三楽に任せています。 「聚光院方丈障壁画のうち花鳥図」 大徳寺聚光院の「琴棋書画図」は、父松栄とともに描いた障壁画です。
16「長谷川等伯」の名前を用いるようになるのは、大徳寺山門の天井画と柱絵の制作から間もなくのこととされています。 ちなみに毛利輝元は関ヶ原の合戦の中心人物で総大将です。
後に探幽が50歳を過ぎて生まれた実子である(1653 - 1718)が跡を継ぐが、この系統からはその後見るべき画家は出なかった。
その背景として「三回忌」という法要という場に合わせたとも、あるいは天下取りを目指す秀吉が信長の影響力を削減するために修正させたなど、様々な原因が挙げられています。
父・奥村文之丞宗道は能登国の戦国大名であった畠山氏に仕える下級家臣であったとされています。
画像・「 洛中洛外図、左」 画像・「 洛中洛外図、右」 画像・「聚光院障壁画のうち花鳥図」 ですが、 特に有名な「唐獅子図屏風」だけは国宝に指定されていません。
11狩野家直系以外の絵師としては、川越・の『職人尽図屏風』の筆者である(1552 - 1640)、京都・の『豊国祭図屏風』の筆者である(1570 - 1616)らが知られる。 文化人なのにこんな大兵力はいかがなものかw -- 2013-07-16 火 05:25:39• 彼はその後永徳の弟子として受け入れられました。
この記事のまとめ 狩野永徳は、安土桃山という動乱の時代で活躍した絵師であったために、その絵画が現在まで残っている作品が少ない絵師です。
結局、等伯は降ろされ、障壁画は狩野派が請け負うことになります。
現代のように、写真や動画など記録を残す手段がなかった時代のこと。
花鳥図押絵貼屏風 六曲一双 - 個人蔵。 永徳特有の手堅い筆力がみなぎった絵です。 的には,永徳の長男光信がやまと絵風の優美な作風をもつのに対し,永徳の大画様式は山楽が継承,それはさらにへと受継がれたが,永徳時代の力強さや躍動感は次第に薄れ整合化,装飾化が進んだ。
10権力者たちにとって、良い絵師とは、護りの固い館や機転の利く家臣と同じくらい、重要な存在だったのでしょう。 まずは「洛中洛外図屏風」から。
まとめ 狩野永徳を5分で!「唐獅子図屏風」はなぜ国宝じゃない?でした。
今や幻の城と言われ、どんな形をしていたのか、図面も絵図もほとんど何も残っていない安土城。
これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。