この日の御 饗宴 ( きょうえん )の席の折り詰めのお料理、 籠 ( かご )詰めの菓子などは皆 右大弁 ( うだいべん )が御命令によって作った物であった。
四辻 よつつじ 善成著。
まだ小さくて 大人 ( おとな )の頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかという御懸念もおありになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。
桐壺院の八の宮が、娘と認めてくださらなかったため、 父 のない娘として大切に育てておりました。
一年 (ひととせ) の春宮の御元服、南殿 (なんでん) にてありし儀式のよそほしかりし御響きにおとさせ給はず、所々の饗 (きやう) など、内藏寮 (くらづかさ) 、ごくさうゐんなど、おほやけごとに仕うまつれる、疎そかなる事もぞと、取分き仰言ありて、淸らを盡して仕うまつれり。
14」とあるのは、 「思ひ」が母君自身の動作なので、作者は下二段活用 の謙譲の補助動詞「給ふ」を用いて「うちうちに思ひ給ふるさまを奏し給へ。
同じほど、それより下﨟(げらふ)の更衣(かうい)たちは、まして安(やす)からず。
よくよく深い前生の御縁で、その当時は世の批難も後宮の恨みの声もお耳には留まらず、その人に関することだけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない、国家のためによろしくないことであるといって、 支那 ( しな )の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。
愛しい藤壷との初めての逢瀬に、藤壷はご懐妊をなさいまして…… 白梅の薫る夜、常陸宮の姫君にお逢いになりました。
英語 0• 五六日 (いつかむゆか) さぶらひ給ひて、大殿 (おほいどの) に二三日 (ふつかみか) など、絶え絶えにまかで給へど、只今はをさなき御程に、罪なくおぼして、いとなみかしづき聞え給ふ。 ず=打消の助動詞「ず」の連用形、接続は未然形 人々の非難をも気にすることがおできにならず、 世の 例 ためし にもなり ぬ べき 御もてなし なり。
15源氏の君は思わず姫の袂を捕らえて…… 2人は愛し合うことになりますが…… 賀茂の祭、葵上一行は御輿の所争いとなりました。
最初から私こそは(帝のご寵愛を得る)と自負していらっしゃった女御の方々は、 めざましき ものに おとしめ そねみ 給ふ。
能・狂言事典 0• 人柄のあはれに情けありし御心を、主上(うえ)の女房なども、恋ひしのびあへり。
何事かあらむとも思したらず、侍ふ人々の泣きまどひ、主上(うえ)も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見奉り給へるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。
内裏(うち)より御使あり、三位の位贈り給ふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。 『源氏物語』の現代語訳:桐壺2(現在位置) [古文・原文] その年の夏、 御息所(みやすどころ)はかなき心地にわづらひて、まかでなむとし給ふを、暇(いとま)さらに許させ給はず。
この女御へ済まないという気も十分に持っておいでになった。
小皇子 ( しょうおうじ )はいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。
このごろ明暮 (あけくれ) 御覽ずる長恨歌の、御繪亭子 (ていじ) の院のかかせ給ひて、伊勢、貫之によませ給へる。
源氏の君は、御あたり去り給はぬを、ましてしげく渡らせ給ふ御かたは、え恥ぢあへ給はず。 やもめずみなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、目やすき程にて過ぐし給へるを、闇にくれて臥し沈み給へる程に、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎 (やへむぐら) にもさはらずさし入りたる。
日本古典文学全集 538• ポケプロ和独 0• いみじき武士 (もものふ) 、仇敵 (あたかたき) なりとも、見てはうちゑまれぬべきさまのし給へれば、えさし放ち給はず。
決まりがあるので、これ以上は更衣を留めることが不可能であると帝はお思いになり、更衣が退出していくところを見送ることができない尊貴な自らの身分を、どうしようもなく悲しまれていた。
「なくてぞ人は恋しかりける」とはこうした場合のことであろう。
源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。 「あはれ」はもともと感動したときに口に出す感動詞であり、心が動かされるという意味を持つ。
14限りあれば、例の作法にをさめ奉るを、母北の方、「おなじ煙 (けぶり) にものぼりなむ」と泣きこがれ給ひて、御送りの女房の車に慕ひ乘り給ひて、愛宕 (をたぎ) といふ所に、いといかめしうその作法したるに、おはしつきたる心地、いかばかりかはありけむ。 本当にこのように思っているのです。
直前に四段の已然形があることから判断できる、直後に体言が来ていることから連体形だと考えて活用から判断してもよい。
太真は楊貴妃の道士時代の名である。
かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留め奉りて、忍びてぞ出で給ふ。
入内の初めから、自分こそは(帝のご寵愛を一身に集めよう)と気負っていらっしゃった女御の方々は、気にくわない者として軽蔑し妬(ねた)みなさる。 下﨟(げらふ) 年功を積むことが浅くて、地位の低いこと。
19唐土(もろこし)にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、 楊貴妃の例も、引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ。 こんな事に対しても、後宮のある人々は反感・恨みを持つことになった。
午後四時に源氏の君が参った。
こんな場合にはまたどんな 呪詛 ( じゅそ )が行なわれるかもしれない、皇子にまで 禍 ( わざわ )いを及ぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目だたぬように御息所だけが退出するのであった。
明石の姫君が入内し、母・明石上が後見として宮中にお上がりになりました。
美しい姫はやがて皇子(源氏の君)を産みますが、皇子3歳の頃亡くなります。 係助詞「こそ」を受けて已然形となっている。
婚儀の日、匂宮は愛しい中君を見捨てて、出かける気になれず、ご一緒に十六夜の月を眺めて…… 常陸の介の後妻には、大層美しい姫がいました。
母御息所は、帰り際、柏木が大切にしていた笛を譲り渡しますが、その夜、夢に柏木が現れて、「その笛は相応しい人に譲りたい……」と申します。
「いとどしく蟲のね繁きあさぢふに露おき添ふる雲の上人 かごとも聞えつべくなむ」といはせ給ふ。