だから「方法的」懐疑なわけですね。 しかしそれが判別できたとしても、神の完全性を完全に理解できるかどうかは問題が別でしょう。 カントはなぜ、それを間違いと言ったかというと、私が思うことは確かに疑えない、そして確実性もあるけど、それは私が思っているという事実に対して言えることで、だからと言って私が存在するということまで確実で、疑えないということではない、と言いました。
それは具体的に言えば、一切の感覚刺激のない子供の脳における主体意識というものを一方で考えながら、同時に、そのような主体にとっては、超越的な、外部世界の存在を、簡単に自明的に述べている(構造措定している)ということです。
簡単にいえば「私が存在する」という証拠は• 」 と述べています。
精神は自己について思いなしているものを分離せよ。
そうやって少しでも確かじゃないものはどんどん切り捨てていって、最後に、自分を否定しても否定しても残ってしまうもの。
極端はたいていの場合悪い。 さらに経験論や現象学の立場にたつ哲学者たちは、コギトつまり思惟の直接の対象はこの思惟そのものでも自我でもなく、さまざまな印象や観念などの思惟されるものcogitatum(ラテン語)であり、デカルトがコギトから出発して自我を実体として措定したのは、伝統的な実体論的思考法に基づく誤謬 ごびゅう であると批判する。
自己について知っているものを認めよ。
動物としての動きの主体である。
つまり「絶対確実な真理の存在を追求するために疑わしいものを全て排除するとしても、全ての存在を疑う私自身は絶対確実に存在する、という事実だけは排除できない。
)》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。
例えばあなたは今自分の部屋にいます。 。 だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。
15そこで、そもそも絶対確実なものはあるのだろうか、確実なものとして一体何を考えればいいのか、何をよりどころにすればいいのか、何を自分が考え生きていく上でよりどころや土台にすればよいのか、ということが彼にとっては大問題になりました。
すなわち 《考 えるわれ》は 非物質的で非物体的な実体なのであると。
しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。
『省察』• 数学とか雄弁術など、学問ひとつひとつの利点を具体的にのべたのち、「その正しい価値を知り、欺かれないよう気を付けるためによいことである」と結論付けているよ。
例えば何か悪魔みたいなのがいて、あなたが窓を開けた瞬間にその景色を作ってるのかもしないという可能性を確実に否定することはできません。 このデカルト本人の釈明について 広く一般に誤解があるようです。
5デカルトは、各地の法律や都市建築を例にとって、 いろんな人が寄り集まってできたものよりも、一人が作ったものの方が完成度が高いことを説いているよ。
デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
( d-J ) アウグスティヌスの《あやまつならわれあり》をわたし は次のことを明らかにするために応用しました。
笑いの深さが違うんですよ。
天才デカルト ルネ・デカルトは1596年生まれで1650年没。
その直観がデカルトの方法的懐疑を支えている最も重要なポイントです。
さて、デカルトの書いた『方法序説』について、ちょっとコメントしないといけません。
世の中の政治問題、または人間同士のトラブルや意見の相違などを聞いて、双方の意見を聞いていると、まっこうから対立する場合が多く、絶対に正しい意見、誰もが絶対に反論できない意見はなさそうに思います。
こんな風な考え方をとことん突き詰めていくと、「そもそも自分が見ている世界は本当に存在するのだろうか?」「自分が見ている世界は実は幻覚ではないのか?」というところまで行ってしまいます。
最初にそのあたりのことを少しだけご紹介します。
読み取れた場合にはわたしに教えてもらえれば幸いである。
哲学というものは(デカルト自身がそう感じたように)同じ問題に対して様々な見解があるなど、言ってみれば「曖昧」な学問かもしれません。