まず、天台宗が密教と顕教の両方を大切にしたのに対し、真言宗が密教の優位性を説いたこと(密教と顕教については、またはをご参考に)。 唐に渡るまで、空海は脚光を浴びることはなくとも、こつこつと学問を修め修行に励んできましたが、それがここで報われたことになります。
12弘仁3年(812年)には高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。 最澄が唐で天台の法流をうけ、教えを広めることを願っているのを知ると、広世は最澄を還学生(短期留学生)として唐に学べるようにはからいました。
一方、密教修学を願い出た最澄は梵字・悉曇に関する知識も持っていなかった。
その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ちを好む日々であったと伝えられている。
神護寺の定額僧の名簿などから、活動拠点は神護寺だったと考えられています。
真言宗で初めて僧官最高位の僧正位に任命されたのも真済で、当初彼はこれを辞退して空海に譲ったそうです。 学問だけでは飽きたらず、山で仏門修行をしたといわれる。
清和天皇からの信任があつく、藤原良房とともに嘉祥寺西院(観寺)も建立。
の開祖と共に、の大勢が、今日称されるからへと、転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、よりをもたらした。
印刷技術がほとんどなかった当時、そういったものは非常に貴重であり、持っている人に借りて書き写すというやり方が主流でした。
最澄はその後も仏教の研究を続け、仏教理論で南都六宗の僧と論戦をしながら独自の理論を作りあげます。
この比叡山一乗止観院は薬師如来を本尊とし延暦20年(801)には法華十講奉修、現在の奈良県に位置する平城京を中心に栄えた南都六宗の高僧たちを講師として呼んだ記録が残されています。
当時の日本は鎮護国家思想が主流になっていました。
詩文にも優れており、空海の漢詩文を集めて『性霊集』を編集しました。
しかし唐に渡って、空海はその才能を発揮します。 有名なことわざでは• の肖像を作るとき、空海の肖像は、この様式を採ることが多い。
大師号とは、徳の高い高僧の死後、朝廷から贈られる名のことです。
貞享元年(1684)成立の『弘法大師弟子伝』では計20人、弟子全員の網羅をめざした天保13年(1843)の『弘法大師弟子譜』では計70人が記載されています。
つまり、宇宙空間いっぱいの広大無辺な知恵と福徳を持った仏様なんですね。
東寺は 教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称は以降に用いられる。
立っている像といっても珍しくないように思えますが、実はこの像以前の如来像は座っているのが一般的だったのだそうです。
ここまでの人生に大きな違いがあります。
出家して僧になった時期は不明。
偽書 [ ]• 弘法大師誕生佛 「聖徳太子弘法大師一體鈔」には、空海は聖徳太子の生まれ変わりであるという説が記されており、聖徳太子に酷似した像が造立される基となったとされる。 最澄の思想は「円・戒・禅・密」の総合 最澄が開いた日本の天台宗の思想は「円・戒・禅・密」を総合することでした。 帰国後、その実力は天皇にも認められ 真言密教を日本に確立するのです。
18虚空は1つですがあまりにも広大なので、その法力を5つに分けて専門化することで最高のパフォーマンスを得よう、ということです。 神護寺の境内には文覚上人のお墓があって、金堂の右後ろの山道を行くとたどり着きます。
空海、最澄が生きた時代から 9世紀の末ごろまでは、 「弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)」 と呼ばれる。
835年に亡くなった空海は、当時の醍醐天皇より「 弘法大師」という名前をプレゼントされています。
・835年 60歳 高野山で亡くなる。