この国事詔書には「女系にも相続を認める」事が明記されていました。 娘のマリー・アントワネットとの暮らしとは全く逆で、自分たち王家が贅沢な暮らしをすることで民衆を苦しめることは絶対あってはならないこととし、民衆救済を第一に考えていたのです。 最愛の夫との別れとマリア・テレジアの最期 テレジアは夫のフランツと恋愛結婚で結ばれています。
9フランツ1世シュテファン ただ神聖ローマ皇帝として最初は政治や戦争に真面目に取り組んでいたものの、次第に関与しなくなっていった…. 1055-1061• 歴代ハプスブルク家当主の夏の離宮。 )」 だった とされています。
亡くなった時は、フランツの古いガウンを身にまとっており、決して手放すことはありませんでした。
オーストリアと手を組んでいたロシアのエリザヴェータ女帝が突然死しました。
カール6世は、の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」 という進言を尻目に、『プラグマーティシェ・ザンクチオン』(、Pragmatische Sanktion)を出して国内および各国に、彼女の・(ベーメン)・(メーレン)・など、の相続を認めさせた。
また、身体に障害があり病弱であった次女や反抗的なに対しては生涯を通じて酷薄であった。 このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であるが、結婚後4年のうちに連続して3人の大公女が誕生したため、反オーストリア側諸国の煽動もありフランツが批判を受ける。 この戦争で100万人以上が命を落としており、テレジアもこの時代のことを「金も信用も軍隊も自らの経験も知識もなく、その上に助言する者もいない」と語っています。
王政への不満が爆発しての革命でしたので、 マリーは自国にも戻れたのでしょうが、 最後はフランス王妃のプライドを持って運命を受け入れました。
(上記書籍の文庫化)• しかしある事情から縁談は破綻した。
ベッドカバーや天蓋やソファまで、 可愛らしい花柄で統一感を待たせていて、 メルヘンチックかつハイセンスな空間になっている。
『文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ』、2015年、234頁。
ヨーゼフ2世 1741~1790 神聖ローマ皇帝です。 夫フランツはあまりよく言われてませんが、実際は財政管理に長けていて、 マリア・テレジアがお金に苦労せず、ヨーロッパ列強を相手にハプスブルク家の領土を守り抜けたのも、彼のおかげだといわれています。 参考記事: スポンサーリンク あとがきにかえて マリア・テレジアと家族たち この記事ではハプスブルク家の家系図とともに、マリア・テレジアについてご紹 介しました。
11107-1109• これが 「オーストリア継承戦争」の始まりでした。 ヨーゼフ2世がフリードリヒ2世に持ちかけられたに加わろうとしたときは、頑強に反対した。
(復位)1117-1120• 市民は、 「オーストリアには、女はいらない。
この記事では 家系図を用いながら、マリア・テレジアの人生をご紹介していきたいとおもいます。
と語りました。
つまり、実質的に国家の実態を失っていた神聖ローマ帝国よりも、その盟主的位置にある(法的には国家ではなくハプスブルク家を媒介とする曖昧な存在だが)オーストリアおよびハプスブルク家支配地域のほうが事実上の政体(ハプスブルク君主国)と見なされていた。 1290-1301• また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。 いきなり、テレジアにとってもオーストリアにとっても大切だったシュレージェンに侵入したのです。
4マリア・ヨハンナ 1750~1762 天然痘により12歳で亡くなっています。 父の日 男性の入居者様へささやかなプレゼントを贈ります。
そもそもなぜテレジアが、16人という今では考えられない数の子宝に恵まれたかというと、2つの時代背景が影響しています。
わざとではありませんのよ (Pardonnez-moi, monsieur. これが 七年戦争です。
また、イエズス会禁止により職がなくなった下位聖職者たちを中心に教員として採用し 、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立させた。
内容は、 「全家領の不分割・不分離」 及び 「女系相続の場合の自己の家系の他の兄弟の家系に対する優先」 です。 これにより、マリア・テレジアのハプスブルク家相続は承認されたものの、シュレージエンの割譲が決定的になった。
帝位は夫のものであったが、ハプスブルク家当主が継承してきたオーストリア大公の位には彼女が就いていたこと。
1141-1162• 百科事典などにおいてもマリア・テレジアは伝統的に「女帝(神聖ローマ女帝)」として掲載される場合が非常に多く、日本国外でも同じ傾向にある。
1780年マリア・テレジアは最期を迎えます。
マリア・テレジアの生涯 早速ですが、マリア・テレジアの生涯について見ていきましょう。 カール・ヨーゼフ 1745~1761 天然痘により15歳で死亡しています。
後に彼の功績でフランスとの防御同盟が結ばれる。
まさに強く美しくたくましくそして知的な女性、この時代に生きた英雄。
マリア・テレジアは ハンガリーからの援軍を取り付け、盛り返していくことに。
1736年(18歳)フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンと当時としては珍しい恋愛結婚をする。 マリー・クリスティーネ 1742~1798 ポーランド王・ザクセン選帝侯アルベルト・カジミールと結婚しています。
2晩年には親友に、そろそろお迎えが来るとの手紙を送っており、頻繁にカプツィーナ教会のフランツの霊廟を訪れて対話をする時間が増えました。 後述するようにハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時も少なくとも領国内では「女帝」視されていた。
」 との宣伝文句が、グラーベン広場やコールマルクトなどに張り出され、ウィーン中にばらまかれました。
テレジアという子供の誕生は、不幸にも誕生した家柄が一般の家庭とはかけ離れていたため、祝福ムードとはいかなかったようです。
1100-1107• もちろん、このようなダブルベッドならぬダブル棺は、この一基だけである。
結構リキュールたっぷり目でしたのでほろ酔いに! この日はランチの後にいただきましたが、食前酒的にいただくのもアリですね。
7相手はザクセン選帝侯アウグスト三世の息子アルベルト・カシミール公子。
もちろん貴族層にはドイツ語が出来るものも多くなっていたが、しかしそうであってもこの外来の王朝、ましてや女性支配者を白い眼で見ている貴族は少なくなかった。
皇帝フランツや重臣たちは驚愕を隠せなかったが、マリア・テレジアはこれを支持する。
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[ ]• 1738年に領土的な犠牲を払い、やっと列国の承認を得ることができました。 このように依怙贔屓はあったものの、どの子も愛情をもって育てています。 亡くなった時は、フランツの古いガウンを身にまとっており、決して手放すことはありませんでした。
最後まで承認を渋ったフランスも裏切りました。
この時、プロイセンのフリードリヒ二世に対しての、 テレジアの憎しみは骨髄にまで達します。
16人の子供のうち末娘はであり、に嫁いだ彼女を心配したびたび手紙を送っていた。
領土を拡大したいフランスですが、それを面白く思わない国もありました。