そもそもの疑問に関わる「くれなゐの」「薔薇の」「芽の」という「no」の3連発は、リズミカルなだけに簡単に誘導されやすく、それでいてどう繋がるのか、どれと繋がるのかとそこで読み手が戸惑い始める。 「針やわらかに」は文法的に考えて、「棘がやわらかになって」という意味で考えないと、「針」まで続いていた文章が終わってしまいます。 子規はこれを詠んだ可能性もあります。
先生が、「正岡子規は実は寝たきりでね、だから、この『とどかざりけり』には、そういう残り少ない命のようなものがこめられているんだよ」なんて説明をして、「歌って難しいなあ。
ここに「。
要するに、薔薇だけでなく、「薔薇を含む庭」として、この歌をよんでいく必要があるようなのですね。
前回題材としたのは、 くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる• この連作も写生歌の極致といわれる秀歌が並ぶがこのうち3首を揚げる。
だから「俺は赤いバラを買ったぞ」と嬉しくて仕方なかったのでしょう。 それらもあわせて是非とも鑑賞してみて下さい。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。
針やはらかに さらにです。
四十雀を目で追いかけながら、庭の杉垣、青菜の花、松と、目が動いていくのがわかります。
表現技法と句切れ: 4句切れ 解説 「はてなむ国ぞ」は、反語的な表現で、「あるのだろうか・・・ないに違いない」という結論であり、「終てる国」を想定することで、作者の尽きることのない内心の寂しさを対比させて提示している。 」かな。 「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る」 此の短歌についての質問を他の方の質問ページで拝見していた時に、拙い疑問が思い浮かびました。
19この作品の場合、「たたみの上にとどかざりけり」と、短句あるいは下の句で詠っています。
しかし、そう思いつつも、藤の花が、手元にあれば、ただ見るだけでなく、触れてめでることもできる。
」かな。
七五調の和歌は、反対に、七音という重い上半身が、五音という軽い下半身の上に乗っかる格好になるので、歌体はふらつき、なよなよとした流麗な流れの良い歌になります。
でも、ぼくらは子規と一緒に、• 啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。
ハコブルさんという方がその説を支持しています。 現実の薔薇は咲いていないんですね。
病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。
また、「垂乳根の たらちねの 」は「母」に掛かる 枕詞 まくらことば で、特に意味を持ちません。
その宿題とは、「1つの短歌に注目して、作品についてのまとめを行なう」と いうものなのですが. この連作のほかにも次のような秀歌がある。
くれないの雨が春限定かとの問いかけ自体は#10でご納得いただけたようですが、それは実は季重なりではないかの示唆もまた含まれているのかとも思い立ち、ここで少し続ける形で触れてみます。 すると、これはあたりまえの何でもない情景を詠っているということになります。
艶(えん)にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてあやしくも歌心なん催されける。
しかし茎の赤みに感じ入り、棘に触れみると濡れているせいなのか柔らかい。
行行子の舌にも春の光。
Q 短歌の句切れ、どのように見分けたらよいのかがわかりません。
くれなゐの梅ちるなべに故郷につくしつみにし春を思ほゆ つくし子はうま人なれやくれなゐに染めたる梅を絹傘にせる 家の内に風は吹かねどことわりに爭ひかねて梅の散るかも 鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく 春されば梅の花咲く日にうとき我が枕べの梅も花咲く 枕べに友なき時は鉢植の梅に向かひてひとり伏しをり 前年の「しいて筆を取りて」に比べるとやや精彩を欠くが、6首目の「枕べに友なき時は…」は秀歌である。
1「薔薇」は「ばら」と読み、ローズのことです。
もちろん、情景としては春雨が静かに降っているのだろうなという連想は浮かぶのですが。
*この歌の句切れについて。
「薔薇の芽」も次の俳句の場合などそれだけで季語となります。