母親役のカラノヴィッチはセルビア生まれの50歳。 第二次世界大戦後に成立した社会主義国であるは、旧を継承する多民族国家であり、 6つの共和国から成り立っていた。 まず一つ目の東西冷戦の終了はユーゴ連邦崩壊への動きにとりわけ重要な作用を及ぼした。
7それぞれの共和国は独自の警察を保有するが、軍隊は連邦軍になる、という形をとった。
独立と統一の指導者であった大統領はソ連との対立も辞さない強烈な指導力を発揮し、1948年にはされるなどといわれる独自路線を歩み、その存命中は統一は維持されていたが、1980年のその死によってタガがはずれたように分裂への道を歩むことになった。
7月にはボシュニャク人勢力が保持していたスレブレニツァ、ジェパが陥落、サラエヴォ、ゴラジュデも激しい攻撃にさらされた。
中でも人々を困らせたのが、水と燃料の確保でした。
11 アメリカ国務長官ベーカーも、九一年六月二一日に米国代表としてのみならず、CSCE代表としてベオグラードを訪問し、「民主的・統一的ユーゴを支持し、米国は一方的離脱行為を承認しない」と声明を出した。
結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「」を制定した。 (2008年) 監督• さらに当時のデクエヤル国連事務総長も「時期尚早且つ選択的な独立承認は現在の紛争を拡大させる危険があり、とりわけ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとマケドニアに重大な結果をもたらすことになろう」と警告した 十二月十二日、ゲンシャーへの書簡。
サラエボの町を歩くときふと上を見上げると、無数の銃跡が残る建物の壁が否応なく目に入るでしょう。
一九七〇年代のユーゴの経済成長を支えたのは、主として外国からの多額の借款であった。
(2017年) 監督• [ ] スレブレニツァの虐殺 [ ] 詳細は「」を参照 、ムラディッチ大将率いるスルプスカ共和国軍部隊(セルビア人勢力)は、指定のであったに侵攻をはじめ、には中心部を制圧した。
ボスニア内戦 1992~95年 ムスリム人・クロアチア人 VS セルビア人勢力 独立をめぐる対立から、ムスリム人、クロアチア人、セルビア人による三つ巴の内戦に発展。 関連項目 [ ]• さらにその後も、大規模な集会を組織し、民族主義に訴えることによって民衆の支持を拡大した。
13このことは、国連の平和維持活動の持つ制約を如実に示している。
21 憲法修正による重要な点は、「七四年憲法体制」自体が根本的に変質したことであった。
また、ボスニアのクロアチア人地域の併合だけを目指す「中クロアチア主義」的な主張も存在する。
(セルビア共和国のとなっている)• その勢力は15万に達し、43年夏には国土の約半分を解放区にすることができた。
枢軸国によるユーゴスラヴィアの分割 セルビアはドイツの直接軍政下に置かれて、スロヴェニアはドイツとイタリアで折半され、モンテネグロとダルマティア海岸部(現クロアティアの一部)はイタリアの施政下に置かれ、マケドニアの西部とコソヴォはイタリア占領下のマケドニアに組み込まれた。 映画 [ ]• さらに2006年、は国民投票を行い、セルビアとの国家連合を解消することを決定、ここに旧ユーゴスラヴィア連邦を構成した6共和国は完全に分離し、それぞれ単一の国家となった。 それに対してアメリカ、EU諸国、そして日本が承認を与えたが、セルビアは強硬にその独立を否定し、ロシアも同調している。
9セルビア人勢力とボシュニャク人勢力の間では、セルビア人勢力が最後の攻勢に出た。 それを見ながら「もしこの裁判でクロアチアが勝ってセルビアが負ければ、僕の父さんは"戦犯国の人間"ってレッテルを更に貼られることになるのかなぁ・・・。
1980年代後半の不況によって各構成国による自治・独立要求が高まり、からのにより解体された。
(監督、2001年 出演:ほか)• 柴、同上書、同頁 25 中村義博、『ユーゴの民族対立』サイマル出版会、一九九四年、一七頁。
その主張によれば、当時セルビア共和国外に住み、セルビア語を常用しているセルビア人の統合を目指すもので、その主たる目標は、当時トルコの支配下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人を解放することであった 7。
建国時からであり、主導的な立場のに対するら他民族の反感といった問題が存在していた。 この米国の政策転換の裏には、欧州担当国務次官補のナイルが、西欧諸国と共同でボスニアの国家承認を行なえば武力抗争も回避しうると見て、スロヴェニア、クロアチア、ボスニアの三か国の承認に踏み切るようにブッシュ政権に進言したことがあった 68。 ボスニア総督スティエパン・サルコティチは公開裁判や即決裁判などで5000人を処刑し、領内のセルビア人の追放・強制収容によって10万人以上が故郷を追われた。
3ギリシアがマケドニアの独立承認に強硬に反対したのである 73。
そして 戦後には ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が建国。
周辺の共和国が次々に独立していく中で、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、ユーゴスラビアからの独立の機運が高まっていきました。
第二のアプローチは、異なる民族主義のあいだに存在する類似点を根拠にして、どの民族主義にも与せず、全ての民族主義を等しく嫌悪すべきものと見なす 87。
クロアティアとボスニアにとっては「内戦」ではなく、「セルビア人問題」である、との指摘もある。 たとえば、八〇年のチトーの死後、最高の政策決定機関である連邦幹部会に関しては、「調停者」としての役割を果たしえなくなっていたユーゴ共産主義者同盟議長が構成員から外れ、六共和国・二自治州から各一名の八人構成になる。 (1991年 — )• この過程の91年から2001年までに、ユーゴスラビアでは、多くの紛争が起こっている。
1929 当時のソ連憲法に類似したものであった。 (2008年2月17日に独立を宣言し、となった)• 何度もレイプされ、お腹が大きくなっても繰り返し兵士たちは襲ってくる。
この複雑なモザイク国家を束ねていたのは、 第二次世界大戦でパルチザン部隊を率いて ナチス・ドイツからの自力解放を勝ち取った ティトー大統領のカリスマ性だった。
第二のユーゴ 第二次世界大戦中、ナチス=ドイツに対するパルティザン闘争を戦ったティトーの主導の下に共産党が権力を握り、1946年に共和政の連邦国家としてが建設された。
(チェコ人とスロヴァキア人がチェコスロヴァキア人という単一民族の民族自決権が承認されたのと同様であるが)「第一のユーゴ」の場合、南スラヴという民族区分は歴史的経験や宗教や言語を異にするセルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人にとって容易に受け入れられる概念ではなかった。
69 反セルビアの代表的な議員は、後に一九九六年の大統領選で共和党の大統領候補となるボブ・ドール上院議員であった。
独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、翌日にはボスニア・セルビア議会が北部を中心に「」の独立を宣言した。 「 5つの民族」とはセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人。
<柴宜弘『図説バルカンの歴史』2001 河出書房新社 p. では、この背景にはどのような要因があったのであろうか。
それ故に、「紛争当事者の同意」を原則とする「従来型」のUNPROFORは、九五年初頭のクロアチア政府からの撤退要求を前に、活動計画そのものの変更を余儀なくされることになったのである。
誰にでもすぐ身近にあった「死」 サラエボ包囲時に、市民が抱えていたのは、食料や物資の不足による苦しみだけではありませんでした。