大河ドラマでも取り上げられるほど人気のある、源平合戦の始まりをお楽しみ下さい。
源平合戦 治承・寿永の乱といいます。
そして、 1153年にとなり下野守と右馬頭を兼任しました。
天皇と上皇を幽閉して実権を握りますが、京での騒ぎを聞きつけて慌てて戻った平清盛が、天皇と上皇を奪い返すことに成功し、形勢逆転。
(元木 p. 1240-1243• この後に清盛は病死します。
…の武士。 このように、保元の乱と平治の乱には明確な違いがあったのですね。
古澤直人「平治の乱における藤原信頼の謀叛」『経済志林』八〇巻四号(2013年)、のち古澤『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』P119-122. …相模の武士。
1166-1169• 元木泰雄は、平治の乱は保元の乱と異なり王権の分裂ではなく信西と反信西派の私闘であり、首謀者以外は巻き込まれただけと見なされて処罰は軽く済んだのではないかと推測している(『河内源氏- 頼朝を生んだ武士本流』中央公論新社〈中公新書〉、2011年)。
1312-1317• また、岩田慎平は、義朝縁者は保護的といっても良い扱いを受けており、義朝は信頼一派に巻き込まれただけという同情が貴族社会にあったのではないかと見ている(『乱世に挑戦した男 平清盛』新人物往来社、2011年)• で敗北したのち、 は讃岐に流されました。
それでも「わが一門でなくては出世できない」と言っているので、おごり高ぶっていたことは確かでした。 山田邦和は、崇徳上皇が内裏のある高松殿の周辺、頼長も平安京を横断するという目につきやすい経路を用いて逃亡しているのに、残敵掃討の指揮にあたった義朝がこれを顧慮しなかったことを指摘し、「手抜かりというレヴェルですらあるまい」として、義朝を「十廿騎の私事」といった小競り合いに長けているだけの無能力な人物と酷評している。
13頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。 しかし、清盛はこの報告を聞いてすぐさま京都方面に急行し、すぐさま京都に到着。
同年9月、一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、の権限で家伝の宝物であるを摂家正邸のもろとも接収すると、忠通の藤氏長者を剥奪してこれを頼長に与えたばかりか、忠通をするという挙に出る。
1229-1232• 990-995• また、 やらは朝廷の命により反逆者として処刑されます。
氏長者。
明法博士らに相当の罪を検討させたところ、主犯・従犯の区別はしないという律の規定により、みな斬刑に処すよう奏上があった。 政権から追われつつあった頼長は一発逆転を狙わざるを得ない立場となっていたのです。
13猪俣党• 忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。 …盛国の子• 伊勢平氏流• 戦闘の具体的な様子は『』に頼るしかないが、上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の・が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。
そのような中、去る7月9日の夜に太上天皇がひそかに城南の離宮(鳥羽殿)を出て、洛東の旧院(白河北殿)に御幸して、そこを決戦の場所に定め、武士を集めて頼長とともに狼の群れのようになり、凶悪な謀略を企てた。
さらに、高倉上皇はまもなく病に倒れ、翌1181年(治承5年)1月14日、21歳で亡くなってしまいます。
…為国の子• 鳥羽法皇崩御 [ ] 新体制が成立すると、後白河と、守仁との婚姻が相次いで行われた。
かくして、翌56年鳥羽法皇が亡くなると宮廷内の不満は一挙に噴出する。 この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。 さらに院近臣も後白河上皇を支持するグループ(後白河院政派)と二条天皇を支持するグループ(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。
4について知りたい方はこちら 同じころ、では と の兄弟が争っていました。
1751-1764• 1053-1058• 1860-1861• は戦いで首に矢を受ける重傷を負います。
そして、彼らは兵を集めます。
の 武士(北面・検非違使・京武者)• 俳句 [ ]• や源氏、が側と側に分かれて争います。
為義の四男• 有名なこの言葉は、1174年(承安4年)に、時忠が従二位に叙せられた頃に言ったとされています。
頼長の側近 武士• のあまりの仕打ちに、は怨霊となったという伝説が生まれました。
今回はの内容や乱の登場人物、との違い、乱の原因や結果などについてわかりやすく解説します。
白河北殿では軍議が開かれ、は高松殿への夜襲を献策する。
後白河天皇宣命案(石清水文書) 『平安遺文』2848 読み下し文 …前左大臣藤原頼長朝臣、偏に暴悪を巧み、妄りに逆節を図りて、太上天皇を勧め奏して、天下を擾乱し、国家を謀危するの由、云云の説、嗷々端多し。 このような中、仁平3年()に近衛天皇が重病に陥る。
しかし、頼長はの援軍を待つとしてこの提案を退けました。 851-854• 1781-1789• 仏は出家者のことであり、信西と美福門院を指していると見られる。
…重頼の弟• 側の主力として活動した とは恩賞として官位の昇進を果たします。
ここに関白と内覧が並立する前代未聞の椿事が出来することになった。
その後、彼は都に帰りたいと切実に願いますが果たされず讃岐で亡くなります。
…盛兼の子• 頼長の養子• の地位はからへと受け継がれました。 朝廷内部の争いに摂関家の抗争が絡んで起こった内乱であったが、双方が武士を動員し、武力によって決着をつけたため、武士が政界に進出するきっかけとなった。
義朝の父• 両軍の対峙 [ ] 10日の晩頭、頼長が宇治からして白河北殿に入った。
もし寄せ重きによりて優じ、職高きが為に宥むれば、中夏を治め難く、後昆をも懲らしめ難からむ。
平安時代末期に起った2つの争乱。
清盛の叔父• なんと 義朝の長男である源頼朝を伊豆へ流罪として処刑をしなかったのでした。
天皇が弟では将来のは不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。
1037-1040• …右衛門尉。
なんでこの源氏と平氏の間で亀裂が生じてしまったのかは上にも書きましたが、 今回の焦点は信西を中心として色々な派閥が誕生したことにも一つあると思います。