8月12日の夕方、阿南は久々ににあった私邸に帰った。 これは終戦間際の最大の謎のまま残されましたが、全くの謎でもなく阿南と米内、鈴木の発言を時系列でまとめると、何かぼんやりとした意思が見えてくるような気がします。 この報道がなされて以降、日本政府はソ連を通じた和平に期待するという形で貴重な時間を無駄に費やしていった。
会議では、ポツダム宣言の受諾にあたり、どのような条件を付けるかが論争の的となった。
しかしながら、今回の内容は現場の緊張感・臨場感に溢れた心を打たれる貴重な資料である。
阿南が陸軍次官に着任する直前の9月にが停戦となっていたが、阿南はノモンハン事件が日本軍の敗北であったことを初めて知って愕然としている。
山本は戦死、宇垣も負傷しました(海軍甲事件)。
会議場は宮中防空壕内の一室で約十五坪程のお室でありました。 陸軍省と参謀本部は、前任の中将と参謀次長中将の対立もあって関係が悪化していたが、阿南は同時期に多田に代わって次長に就任した幼年学校以来の同期で親しかった中将と「人の和を最優先事項としよう。
実状を知らないにも程がある。 石原は自分にない阿南の円満な人格を高く評価し、滅多に人の意見を肯定しない石原が阿南の意見だけは「阿南さんがそういうならよかろう」と肯定して周囲を驚かせたこともあった。
(ウィキより) といった具合です。
そこで父尚が、阿南が前から軍人志望で、を受験したいと思っているが、小柄なので躊躇しているという話をすると、乃木は「幼年学校は規則正しい生活をさせるし、運動で鍛え上げるからすぐに身体は大きくなる。
これまでは陸軍大臣就任に難色を示していた阿南であったが、敬愛していた鈴木の要請を断ることはなくその場で快諾している。
昭和天皇は無断で布告を作成した青年将校の処罰を要求したが、阿南としては珍しく「若い将校はあんなものなのです。
宮城事件翌朝の天皇のとぼけた様子も滑稽でした。
大手出版社である講談社の現社長・野間佐和子の養子婿・惟道(昭和62年に急逝)は阿南の五男にあたる。
だが阿南は二回の米内海相の裏切りで苦汁を飲んだ。
その後に陸軍課員以上を第一会議室に集めた阿南は「諸官においては、過早の玉砕は任務を解決する道でないことをよく考え、泥を食み、野に伏しても、最後まで皇国護持のために奮闘してもらいたい」と訓示したが、竹下は阿南が「我々」という言葉を使わず、わざわざ「諸官」という言い回しで自分自身を除外していることに気がついて、阿南は自決する覚悟だと悟っている。
しかし、憲兵隊はすぐに吉田を釈放することなく、特にとの関係について厳しい尋問を行ったが、吉田の拘置所内の待遇については、で差し入れ自由という恵まれたもので、阿南の配慮があったものとされている。 しかし、その後も阿南は一度も声を荒らげることがなかったという。 阿南は夜中まで青年将校に付き合い、家族と語り合う暇もなかった。
4先の大戦で日本の無条件降伏に最後まで反対し、徹底抗戦を唱えたことで知られる終戦時の陸軍大臣、阿南惟幾(あなみこれちか)。 それが親としての阿南のせめてもの慰めだった。
しかし阿南の本心がクーデターに傾いたことはないと想像されるのは、天皇に対する血のかよった忠誠心が、彼の中で何よりも上位におかれていたと思われるからである」。
この頃父尚はに巻き込まれて参事官を休職になっており、阿南一家は東京に戻ってきていた。
今日の戦局の惨憺たる有様は、余には理の当然で、むしろ着々として戦略の正しい推移を物語っているに過ぎないと考えられるのであった」 とも書いている。
公正無私、外柔内剛、挙措端正など、軍人の理想像を形づくる言葉がよせられているが、阿南を知る人はみなこれらを肯定する。 …(15日正午)晴れた暑い日であった。 (明治23年)には「職員はに限る」という規定が削除されるも、(明治33年)の定員表の備考で陸軍大臣は現役将官がなることが規定された()。
その時の米内のぴしりと言った言葉が阿南の心に沈殿していた。
原稿用紙は涙のあとで一杯でした。
いきなり、六日の未明にわたしに電話をかけてきて、軍需大臣になってもらいたいというんだ。
。
当時、四国を本拠地とするの師団長と父尚は知り合いであり、ある日、乃木を来賓に招いての剣道大会が開催され、阿南が小柄な体格ながら、旺盛な気迫で上級生相手に敢闘しているのを見て、乃木は上機嫌で父尚に対して「元気があっていい少年だ」と褒めている。 鈴木総理は2.26事件で襲われ、これが二度目となりました。 その激しさに「私の持つ閣下のイメージとは違う」と驚いた。
阿南は大佐時代の昭和4年(1929)、侍従武官として天皇に奉仕している。 満州ではいち早く逃げ去り、 沖縄では住民を守りませんでした。
翌年、山本と共に一式陸上攻撃機2機に分乗して前線視察のためラバウルからブインに向かっている中、待ち伏せしていた米軍機に襲撃され撃墜。
勉めて陸海軍一体化の実現を期し得る内閣を組織すること• そういう私の性質も手つだって、私は資料を読みあさるうちに、阿南が好きになったった。
ありがとうございました」と応え、別れています。