ナレーション「矯(た)められた枝が弾かれるように 堤を突き崩す奔流(ほんりゅう)のように 避けることのできない あの透明な子どもの声との決別の時がやってきたのです」。 冒頭で「私は声です」から始まった意味がようやく理解できたのでした。 それでもなぜか30年を経た現在でも、 こうしてようつべにUPされている「期」のレコード。
9明治43年8月15日に死去。 春日座が火事になる。
NHKが制作したドキュメンタリーレコードで、東京放送児童合唱団でボーイソプラノを担当していた古庄紋十郎さん(当時12歳)が、昭和35年4月から卒業するまでの3年間、毎週撮り続けた声が記録されています。
「わたしは声です」で始まる 不気味なナレーション。
9月にに弟子入りするも背丈が小さいと断られる(当時多くの小屋は手すりが三尺あり、人形操るのに苦労した)も頭取から「子供心でやろと気があるのは面白いと思うが、ま、一ぺんなるかならんか縁もんやから、一つおこしたらどだす」ということで弟子入りが許される。
そうだ、小学生の時に聴いた変声期のドキュメントレコード。 最近は歯止めがきかなくなり、事務所担をめざしつつあります。 身長など目に見える変化には敏感なのに、声については変化を耳にしながらも、戒心を払っていなさすぎ! と世間の無関心さを嘆き、変声期の苦しみを訴えているのです。
20それだけに彼は、日ごと遠ざかっていく少年の声に追いすがり、 次の週も、また次の週も歌い続けました」 そしてついに高い声が出なくなり、古庄君は少年の声と別れを告げます。 大多数の子どもが変声期を迎えるのはちょうど中学生の時期だろう。
上方芸人ばなし()• そういう僕はこの期がいつだったかも分かりませんが、 たしかに昔出た ひよこの鳴き声やの甲高い カラ笑いなどはもうできません。
1970年すい臓がんで死去。
そして、かわいい声がおっさんっぽい声へと変化してしまうのだ。
信州や江戸で修行し、明治9年3月に大阪に戻り、に門十郎の名跡で出演した。
声変わりの様子を連続して聞くとなると恐怖や罪悪感にかられ、映像がない分、読み上げられる言葉の一つ一つがダイレクトに伝わり、なんだか切なくなります。
そんな日常の話題ではつまらないので、本日はちょっと 怖〜い話です。
声は文字に現れない抑揚や高低、そしてまたその人だけがもつ表情をもってよびかけます』 低い声のナレーションからはじまる、ちょっとミステリアスなレコードは『変声期』というタイトル。
以前には「探偵ナイトスクープ」(関西系番組)で、また、本日の番組「トリビアの泉」でも特集されていたこの人物、 古庄紋十郎。 とある少年の12歳~15歳までの歌声を毎週録音していったもの。
8たぶん、古庄紋十郎さんはバリトンの声域と判断されて、それなりのレパートリーを仕込まれる、となるストーリーで完結するのですが、私が今聞くとファルセットをきっちりと覚えればテノールにもなりますし、声自体の母音響きの集まりがとても美しいので、バスにもなり得たのではないか、とも考えたりもします。 そして、1963年(昭和38年)4月2日の15歳(3年後)の歌声は声変わりが完了し、低音の男性の歌声になっている。
よろしくお願いします。
昭和35(1960)年4月2日の12歳から昭和38(1963)年4月2日、15歳までの「シューベルトの子守唄」の歌声が毎週一回ずつ記録されています。
毎日何かを記録するって長いスパンでみると大事な気がしてきた だからこその収支帳かあぁなるほど。
以前、『』でも取り上げられたそうですが、 中学1年の音楽の教科書に 「期」という項目があり、 たしか一学期の某日の授業でこのレコードを聴かされました。 戦後、組合派(のち)を結成し会長となる、「文楽因会」の保守派と対立。 また当の古庄紋十郎君も数年前の調査で、すでに鬼籍に入られたようです。
17声の主は古庄紋十郎(ふるしょう・もんじゅうろう)さん。
はっきりいって古庄君がモルモットにされている気がならないのですが、 このときのナレーションはもっと残酷です。
レコードの一番最初に録音されたのは「4月2日 12歳 古庄紋十郎(ふるしょう もんじゅうろう) ね~むれ~ね~むれ~」というセリフと歌声。
著書に『文楽の人形と三味線』(鶴沢清二郎共著 文楽研究会 1944)がある。
私は見えない人の心を伝え、見えない人の心を歌います。
中学校の音楽の先生という立場は、実に、成長に伴う変化の大きな時期に、精神的、身体的な変化を観察するのに、かなり良い位置にいるように思う。
「自分の声の裏切りに苛立ち、仲間から脱落していくような不安にさいなまれたのです。
いま思うと、こういう他人の不幸をあざ笑う 恐ろしい人間だったわけです (僕だけじゃないけど)。
思春期の大半をSMAPの中居さんに費やした過去を持つ、ジャニーズ好きライターです。 で、以前ぐぐった時には出なかったのだが、雑学系の番組で紹介されたこともあるようで、上のヤツを読んで、そうだそうだと・・・・40何年ぶりかで思い出した。
8しかし、その名前は、少年時代に録音されたあるレコードによって、まさに同年代の子供たちによって連呼されることになった。
「しかしとうとう険しい坂道が彼の目の前に現れました」との説明のナレーション入り。
ソプラノからテナーに変化する、なんてなだらかなものではないところがやっかいだ。
『私は声です。