コロンブス 航路。 コロンブスの航海 その1~黄金の国・ジパングを求めて

コロンブスの第1回航海を詳しく見てみよう

署名はコロンボ,コロモ,コロム,コロンなどと次々に変えたが,コロンブスという綴りはラテン語で書くときも使用していない。 コロンブスの敵は、前にも後ろにもいたのである。

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それは、に漂着した白人漂流者がいたというものである。

コロンブスとは?アメリカ大陸を発見した経緯や航路、「コロンブスの卵」の意味について解説!

幸い積み荷は先住民グアカナガリの協力によって、ほとんど無事に回収されました。 また、商品発送等で個人情報の取り扱いを業務委託しますが、厳重に委託先を管理・指導します。 ニーニャ号に乗り組んでいたコロンブスはこの状況を打開するために、ワインや水の空き樽に海水を入れて船底に積み、バラスト代わりにしようと考えました。

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コロンブスは、船の重量を軽くしようとしてメインマストの帆を投棄するように命じましたが、それでも船の崩壊は避けられなかったため、やむを得ず船そのものを放棄します。 探検は失敗したのである。

コロンブスが発見した西回り航路 ~ スペイン国王との契約 ~

8月になるとようやく救助の船が到着したため、コロンブスはインドへの航路を発見できないままスペインに帰還しました。

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でも、救う神あれば拾う神あり。 西インド諸島は当時からそう呼ばれていた訳ではありませんが、実際のアジアにあるインドが発見された後に区別のため、コロンブスの勘違いやインディアスを由来にアメリカ・カリブ海の島々は西インド諸島と呼ばれるようになりました。

コロンブスとは?アメリカ大陸を発見した経緯や航路、「コロンブスの卵」の意味について解説!

しかしコロンブスの航海を支援していた女王・イザベルはこれを送り返し、反対にコロンブスの統治に対する調査委員を派遣する事態となります。 アメリカ大陸をヨーロッパ世界と結んだということがコロンブスの業績であることは、たしかにその通りです。

ヨーロッパからアメリカへの道中は海ばかりで、今まで探索に出た船団は誰も戻っていません。 の説に触発され,西回りの航路でに到達する計画を立て,スペイン女王の後援を得て 1492年8月,3隻 『』『』『ニーニャ』 の船でを出港。

実は新大陸を発見していた!コロンブスの栄光と挫折の人生を辿る

第1回航海出発( - 1493年3月15日)• もともと興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。

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この学識者評議会を主宰していたのは、大司教と大臣を兼任するエルナンド・デ・タラベラという人物で、彼の推薦もあってフェルナンド国王とイサベラ女王はコロンブスの計画に耳を傾ける気になったのです。

コロンブスを航海に向かわせた、トウガラシをめぐる冒険

この逸話がコロンブスの卵の言葉の語源とされています。

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この船はレプリカ、つまり復元船だったのである。

コロンブスとは

・航海の成功を記念して、リスボンにジェロニモス修道院が建設された。 このようなコロンブスの苦境を救ったのは、遠征船団でカラヴェル船「ニーニャ号」と「ピンタ号」の船長を務めたピンソン兄弟でした。 これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。

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サンサルバドル島は、バハマ諸島の1つだが、コロンブスが最初に上陸したことにちなんで、1926年にワトリング島から改名された。