薩長同盟を結べば、龍馬の結成した「亀山社中(のちの海援隊)」の仲介で、薩摩藩名義で大量の武器や蒸気船を購入し、長州に引き渡すという武器購入のためのルートを確保することが約束されていました。 もし馬鹿なら大きなバカで、利口なら大きな利口だろう。
6しかし、長州藩は薩摩藩・会津藩との戦いに敗れて 『朝敵・逆賊』の立場に追い込まれ、朝廷の孝明天皇は江戸幕府の 14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち,1846-1866)に対して長州征伐(長州征討)の宣旨を出しました。 そのことは薩摩藩も察知していて、幕府が長州藩を討伐した後、薩摩が次の標的にされる恐れがあると感じていたのでした。
その後新政府軍は北上し、旧幕府軍に江戸城の明け渡しを命じました。
薩摩藩は同じ考えを持つ会津藩と共に尊王攘夷派を暗殺するなどしていましたが、一方の尊王攘夷派である長州藩は当時京都で暴動を起こしていました。
ただ、一向に同盟が締結されない状況に業を煮やして、西郷を一喝し、薩摩側から同盟の話を切り出させたというのは龍馬でなければできなかったのかもしれません。
これを 西郷隆盛側の視点から、私なりに、分りやすく、面白く解説していきますので、是非楽しみながら読んでもらえればと思います。 長州藩が幕府軍に勝ちそうな展開であれば、薩摩は朝廷に講和を働きかける。
などをあげています。 しかし、勝は、新政府軍の西郷隆盛と交渉し、無益な攻撃をやめさせることに成功したのです。
いい機会だから説明しておくが、そもそも明治維新は「薩長を中心とした維新志士たちが、守旧派の幕府側に権利を奪われていた庶民を解放し、日本を西洋諸国と並び立つ近代国家へと導いた」という認識で語られがちだが、事実に即して言えば、薩長とは国家転覆(暴力革命)を成功させたテロリスト集団なのである。
ところが西郷がそれをドタキャン、両者の関係は悪化します。
これを良く思わなかった会津藩と薩摩藩は武装して御所の入り口を固め、長州藩を京都から追い出してしまいます。
ここでは、薩摩と長州との関係を軸に、 順を追って年表に沿いながら一つ一つ出来事を簡単に説明して行きます。 万が一長州藩が負けた場合は長州藩を滅亡させないために、薩摩藩は必ず長州藩を助ける為に尽力すること。
攘夷派無理かも。
公武合体派の薩摩藩と尊王攘夷派の長州藩、 それぞれ考え方が違うことで当然衝突が起こります。
勝海舟は新政府軍(官軍)による 『江戸城総攻撃』を何としてでも回避するために官軍参謀・西郷隆盛と粘り強く交渉を行い、 『徳川慶喜の水戸での謹慎・江戸城の尾張徳川家への引渡し』を条件にして、1868年5月3日に 『江戸城の無血開城』が行われました。
大政を朝廷に奉還すると言われれば、即座に討幕に動くわけにはいかなくなりました。 この戦いで 岩倉具視と 大久保利通がこっそり作っていた 天皇家の御紋入り「錦の御旗」が登場します。
17確かに、最後の一押しをしたのは彼だったかもしれませんが、実際に坂本龍馬がどれほどこの同盟に貢献したかは実はわかっていません。 現代における記念・比喩 [ ] (旧薩摩藩に所在)と(旧長州藩に所在)は、150年を記念して醸造した「薩長同盟」を発売した。
薩長同盟は決して坂本龍馬1人の功績ではなく、中岡慎太郎などの尽力も大きかったと思います。
薩長同盟締結により薩長が協力したからこそ、このような一連の流れになっていったと考えると、 薩長同盟は新時代への一つのターニングポイントだったと言えるでしょう。
こうしたなか、敵対関係であった両藩が、福岡藩やイギリスの駐日大使などの仲介もあり、徐々に距離を縮め始めます。
鹿児島入りした安倍首相(公式フェイスクブッブより) 26日に自民党総裁選への出馬表明をした安倍首相。 薩長同盟は坂本龍馬の盟友である中岡慎太郎の構想だったようですが、龍馬はこれに賛同し、薩摩藩と長州藩を結びつける行動を起こし始めます。 薩長同盟のその後 薩長同盟の内容に基づき、1866年7月に始まった幕府による「第二次長州征討」に薩摩は加わらず、逆に出兵の正当性を疑うような動きをみせました。
5ちなみに、公武合体の「公」とは朝廷、「武」とは幕府を意味しています。 武士というものはメンツを気にする生き物なので、協力はしたいけど自分から折れるのは嫌、なのでなかなか進展しなかったのです。
戦争回避。
長州藩は朝敵認定されたので、徳川幕府が長州藩をさらに追い込むため 「長州征伐」に乗り出しました。
一方の長州藩は「破約攘夷(日米修好通商条約を破棄し、外国を排斥する考え)」を持ち、過激な反幕的姿勢を強めていきました。
薩長同盟の概要を分かりやすく言うと、第二次長州征伐が始まったら薩摩藩は長州藩を援護すると言うもの。 実はそこ至るまでの背景がありました。 このように薩長同盟は、 薩摩藩が長州藩をいかなる時も支援するという内容で結ばれました。
それは、盟約がどのようにして成立したかという、西郷らと木戸との交渉の中身にかかわる問題だったのでしょう。 まずは重要な事柄を記載した年表をご覧ください。
しかし、その同盟が成立するまでに様々な困難、ドラマがあったことを知っておられる方は少ないのではないでしょうか? 様々なプライド、思惑、希望、そんな人間臭い物語がいっぱい詰まったこの一大ドラマ「薩長同盟」。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
これが 勝海舟や 坂本龍馬の考え方です。
西郷隆盛と木戸孝允の駆引き ではこの会談ですんなり薩長同盟が締結したのかと言えば、そんな事はありませんでした。 そこは現在、同志社大学になっています。
17薩摩藩は 西郷隆盛(さいごうたかもり)や 大久保利通(おおくぼとしみち)が実権を握り、イギリスの最新鋭の武器を入手し始めました。
そこで幕府に目をつけられたとしても、長州が主だって幕府と戦ってくれる方法が薩長同盟だったのです。
ここで無益な血を流さぬように尽力を尽くしたのが 勝海舟(かつかいしゅう)です。
また、幕府は、攘夷派が天皇のいる京都に集まっており、会津中将松平容保を京都守護職として送り込むとともに、ご存じの新撰組に京都市中の取り締まりに当たらせました。