そういうことがきちんとできさえすれば、世間は優しく受け止めてくれるはずです」 文子さんは公開直前の9月末に脳梗塞を発症し、現在は入院中。 広島県呉市で生まれ育った信友監督は、大学進学のため18歳で上京して以来、40年近く東京で暮らし、現在はドキュメンタリー制作に携わるテレビディレクターとして活躍している。 第1話 お母さんは、認知症になったんかもしれん…… 母・信友 文 ふみ子 こがアルツハイマー型認知症と診断されたのは、2014年1月8日。
9夢見が悪い」 直子さんは母に口頭で説明したそうです。 介護っていうことよりは、60年も2人は一緒に連れ添って生きているので、「これはわしら夫婦の運命じゃけん」と言って、「おっ母がちょっと具合が悪うなったんなら、わしがその分できることはやって、これからも一緒に元気に生きていこうや、お母さん」っていう、2人で寄り添ってほっこりとした生き方をしているのは見ていて本当にほほえましいし、「こういう年の取り方をしたいな」って父と母を見て思うようになったんですね。
ところが、母は歩けるまでに回復したものの、新たな脳梗塞が見つかり全身麻痺に。
久しぶりに会える嬉しさや、不安や、迷いや、悩み。
95歳のお父さんが、今まで台所に立ったこともないのに、リンゴを買ってきて、包丁で剥いて。
いつも実家の1ブロック手前でカメラを取り出し、録画ボタンを押してから実家に向かっていたのです。 そして私を含めた家族3人が、これからどうなっていくのか。 すると奥から母の声が「おかえり~」。
今回の作品は信友さんの介護手記ではありません。
もうひとつは、身も蓋もない理由ですが、当初あまりにも私の撮影の腕がヘボだったので、両親に協力してもらい、撮影の練習台になってもらったという事情でした。
もくじ• ユーモア、という点では、こんな場面がある。
ご期待に添えるような答えじゃなくてすみません(笑)」とお答えしています。
母によく聞くと、その人の訪問と扇風機がないと気づいたときが、同じ日だったかどうかも怪しくなってきました。 自分もつらいことへの直面は遅くしたいと思っています」と胸の内を吐露してくれました。
20認知症であることにたじろぎ、苦悩する母親をカメラで追う、娘であり、ディレクターの信友直子さん。
よし、私ももし自分の家族が認知症になった時、こんな風にナチュラルに対応してみよう、と思ったものだった。
そこを私はくみ取ってなかったなって。
でも母は文字通り台所に「立ちはだかって」いました。
今はとにかく、ヨウコちゃんのダンナが亡くなったから香典を1万円出したのに、その香典返しをくれもせずに「あげたじゃないの」と言われたという話が母のブームだ。 現在はフリーで、主に民放のテレビドキュメンタリーを手がけていらっしゃいます。 会社の勤め人ではないので、有給休暇をいつまで取れるかとか、休職するのかそれとも退職しなくちゃいけないのか、といった心配はありません。
』から引用) それでも「救い」や「気づき」があったと言います。 しかし、信友は母の変化に少しずつ気づきはじめ……。
』として映画化、全国で上映されて好評を博している。
あんた何が食べたい?」と食事の心配をしてくれます。
あの日の看護師さんのように自然と対応することが、決してすぐにできることではないのだと痛感する。
「最初はぼーっとしていました。 むしろ、やっと病名がついたことにホッとしたくらいです。 なので、私もその父と母の覚悟に応えてありのままを本にも書いたんですけれども。
2夏に帰省すると、扇風機が新しくなっていました。 母の気持ちに常に寄り添い、朝、なかなか起きない母に腹を立てるでもなく、たまに早起きした日には「今日は早う起きた。
さて、同じ映像業界に生きる信友直子は、自ら作った映画と同名タイトルの本を、どんな風に仕立て上げたのか。
変わりゆく親を変わらずに愛し続けるには、何が必要だと感じられますか。
二人の連帯感を強める「内輪ネタ」でもあります。
今すぐ映画『ぼけますから、よろしくお願いします。 ぼけますから、よろしくお願いします。 文子さんは点滴で栄養を補給していつつも、直子さんはだんだんやせ細っていくのが気がかりでした。
52014年お正月明けの、1月8日。
病に伏した夫・故大島渚監督を、女優を休業して介護し、5年前に見送った。
病名は脳梗塞。
「そんなことを思う自分は、人間として最低だ」というふうに自己嫌悪に陥っている人もいると思うんです。
』というドキュメンタリー映画にまでなったのです。 実家に着くと、子供のころから変わらない玄関の引き戸をガラガラと開けて一言、「ただいま~」。
「当時はこれが延命治療かもしれないと思っていませんでした」と話しつつも、「自分の中で後悔はありません」と言います。 信友 そうですか。
なので「長谷川式認知症スケール」の問診を受けるときは、母は異常なくらい張り切っていました。
信友の愛とユーモアは、取材対象となったご両親から受け継がれ、育まれたものだ。
このころはまだ、母もそのあたりまでは迷わず行けましたし、父も私も「お母さんはバス停から一人で帰れるんだろうか」という心配はしていませんでした。
あいかわらず看護師さんたちにニコニコ愛想を振りまきながら、「最近、膝が悪うてねえ」などと全然関係ないことを喋っている母……。 どうしようか。 母が脳梗塞で倒れたのだ。
3「このカメラ、直子が買うたんよ。
」と怒って病院に行きたがらない人の話はよく聞くし、それでなくても母はもともとプライドが高い人なのです。
几帳面な母の性格からすると考えられないことだ。
そして、認知症になる前の母がどんな人だったかがわかる映像をふんだんに撮っておいたことも幸いだったと思います。