ありがとうございました。
二木オケの素敵な演奏に聴き入り、心に深く染み入りました。
裕次郎はその少し前「我が人生に悔いなし」という自分の 人生の集大成のような歌をリリースしました。
投稿: 焼酎百代 2014年10月 5日 日 20時23分 2年前に突然声がれして不安になり、咽喉科の専門医に精密検査をして貰いましたが、異常なし!・・単に 声帯の筋肉の衰えでしょう・・・とのこと、安心のような、悔しいような 複雑な気持ちでした。
レコーディングは闘病中に行われたはずですが、少しも衰えを感じさせず、最盛期と同じ艶のある歌声を聞かせてくれます。
ストレスがたまって仕方ありません。 フランク永井やアイジョージ、石原裕次郎の曲がリクエストされると、2番 あこがれさん うたってね!と、頼まれるのが当たり前みたいに、気持ちよく引き受けて楽しんだものですが、77才の春を境にカミさんからも、リクエストが掛からなくなりました。 ハワイで療養していたときに、現地に機材を持ち込みレコーディング。
15系の音楽番組『』では、1987年8月27日(第495回放映)に9位で初登場し、没後の歌手として初めて同番組にランクインした。
一時退院の時、福岡県の有名な温泉に旅をして泊まった旅館の部屋が、「この部屋は裕次郎さんと三枝さんが泊まりました」と教えられました。
「木漏れ日の中で 北の旅人」 投稿: 吟二 2018年9月13日 木 22時02分 この歌が世の出でたころは、現役の46歳の頃だったと思いますが、かすかにどこかで聴いたような感じはしますが定かではありません。
この年になって時代に乗り遅れている自分を情けなく思っている次第です。
投稿: 香西 千鶴 2008年5月22日 木 23時23分 「北の旅人」のエピソードです。 あれから30年の月日が流れましたが、裕ちゃんは私が物心ついた幼い頃から最後まで、不世出の大スターでした。 歌いだしのフレーズは弦によるもので、によって残りの歌詞が書かれた。
5この曲はその翌月にリリースされ、彼の最後のヒット曲となりました。
実は、私の職場 六甲の山荘にも素晴らしいカラオケラウンジがあり、宿泊者が自由に歌い放題できます。
裕ちゃんが亡くなりこの歌がヒットしていた頃、私は身体を壊し、初めての入院生活をしておりましたが、その時に私の部下たちがお見舞いに来てくれた時、裕ちゃんファンの私のために、お花と一緒に渡されたのが、当時発売になったばかりの、早く元気になって下さい!との、寄せ書きメッセージを添えた「石原裕次郎ベストヒット12・北の旅人」のCDアルバムでした。
私は、ここ2~3年 歌い手さんから頼まれても、司会もナレーションも体よくお断りしてますが、つい先日、私のパートナーと本部の若い担当者と夜11時頃、入浴の前にカラオケラウンジを覗くと、たまたま無人でしたので、ちょっと1曲!と、裕次郎の「北の旅人」と「恋の町札幌」をだみ声とファルセットで、ごまかして歌ってみました。
下記参照してください。
「この歌は、石原裕次郎が病気と闘っている最中にレコーディングしたそうで、ワンコーラス歌っては酸素吸入、そして横になり、そして、また歌って、やっと録音したとか。
概要 [ ] 表題曲「北の旅人」は、、がを旅行している際に作曲された。
改めて、YouTubeの動画で拝聴しましたが、病床の中、裕次郎の最後のレコーディングをなされ、彼が歌うこの歌心の表現の豊かさには感動・感動に勝るものはないと感じている次第です。
作詞:山口洋子、作曲:弦哲也、唄:石原裕次郎 1 たどりついたら 岬のはずれ 赤い灯 (ひ)が点 (つ)く ぽつりとひとつ いまでもあなたを 待ってると いとしいおまえの 呼ぶ声が 俺の背中で 潮風 (かぜ)になる 夜の釧路は 雨になるだろう 2 ふるい酒場で 噂をきいた 窓のむこうは 木枯まじり 半年まえまで 居たという 泣きぐせ 酒ぐせ 泪 (なみだ)ぐせ どこへ去 (い)ったか 細い影 夜の函館 霧がつらすぎる 3 空でちぎれる あの汽笛さえ 泣いて別れる さい果て港 いちどはこの手に 抱きしめて 泣かせてやりたい 思いきり 消えぬ面影 たずねびと 夜の小樽は 雪が肩に舞う 《蛇足》 石原裕次郎は昭和62年(1987) 7月17日、入院中の慶應義塾大学病院で死去。
3「北の旅人」「想い出はアカシア」の2曲は、生前最後のシングルとなった「」「俺の人生」とともに、石原がで療養していたから、のドルフィンスタジオにて録音された。 残念です。
何だかお二人にあやかって、ほのぼのした気分を味わったことが思い出されます。
9月17日(第498回)には最高3位に上昇、10月1日(第500回・10位)まで連続5週間ランクインした。
……高柳六郎「石原裕次郎 歌伝説」 現代教養文庫 より 投稿: Dr. 写真:釧路幣舞橋は釧路市、函館風景はWikimedia、小樽倉庫は小樽市より 借用しています。
幸い、観客は歌へた の身内二人だけ・・・。 テイチクは稼がせてもらったのに、ちゃっかり追悼盤をレコーディングしていたと非難轟々だったが、テイチクの関係者は癌で危ないことを知らされていなかった。
3。 ご投稿の皆様のコメントには楽しく拝読させていただきました。
以来、カラオケとは、全くの無縁状態でした。
2~3年前だと、ここからが私の夢舞台だったのに~~。
投稿: あこがれ 2018年9月13日 木 17時35分 2009年11月1日の藤村大蔵さんのコメント 裕次郎はこの曲の吹き込みにあたって、通しで唄えず良いところをつなぎ合わせてレコード化したという噂がある)に対して、11月3日の小蔵さんと15日の中蔵さんから「根拠を示せ」という趣旨の発言がありましたが、私もその噂は聞いたことがあります。
長い間シングル盤を発売していなかったので、先行して昭和62(1987)年4月21日発売する予定だった。 (二木紘三) 裕次郎さんが唄う歌は大好きです。 Unchiku 2009年10月29日 木 18時43分 石原裕次郎の昭和30~40年代の代表的ヒット曲は、独断と偏見で言えば、萩原四朗-上原賢六コンビの『赤いハンカチ』『夕陽の丘』、石巻宗一郎-バッキー白片コンビの『俺はお前に弱いんだ』、浜口庫之助(作詞作曲)の『夜霧よ今夜もありがとう』あたりかと・・・。
10kiku masさま提供 投稿: 一章 2018年9月15日 土 21時58分 「北の旅人」裕ちゃんの死の直後に発売されるという最後のレコードになり、これが追悼盤になろうとは全く予期せぬ出来事だった! 裕ちゃんはハワイアン・ミュージックの全盛時代にデビューし、ハワイに別荘を持つことを夢に見て、それを実現した裕ちゃんの最後の仕事がハワイでのレコーディングとは・・・何か因縁めいたものを感じざるを得ない。 二木先生の解説の繰り返しで申し訳ないですが、『北の旅人』は山口洋子-弦哲也コンビによる最初で最後のヒット曲であり、歌手出身の弦哲也が作曲家になって最初に内藤国雄『おゆき』でヒットを飛ばしたということからも、唄うのが同じ裕次郎でも上記ヒット曲(昭和30~40年代)とは違った味わいがあるんではないかと思う今日この頃です。
無断転載禁止。
芸能生活30周年のアルバムには、ニューミュージック系の人たちにも作曲を依頼していた様子で、健在であったらいいアルバムができたのではないかと思います。
どういう経緯でこれらの歌が作られたのか分かりませんが、何か不思議な 暗合を感じでしまいます。