徒然草においては、しばしば一つの道に邁進している人の素晴らしさを称えることがしばしば書かれています。 されば、真俗(しんぞく)につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌をいふべからず。
15この上なく貴重です。 ・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ: <しいしば・しらがし・・>。
「自分の頭で考える」、「ものの学びかた、習いかた」、「人生は予定どおりにはいかないもの」など、人生で悩んだ時に参考になることがたくさん。
それにしても、参詣者が皆、山へ登ったのは何があったのでしょうか。
p32)。
亡くなった人の訪れる夜として魂を祭る行事は、最近の都では見なくなったが、日本の東方では、今でも行っている所もある。 国文学者は、末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとし、長く有力説とされてきた。
2又問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。 追儺(ついな)より四方拝(しほうはい)に続くこそ面白けれ。
吉田兼好の哲学は生活に取り入れやすいものばかり。
木津川・宇治川・桂川の合流点、淀川の始点付近、天王山の反対側の山上にある。
礼と誠を持ちたいと思います。
だから、世の中には恥ずかしい知ったかぶりの人もいるものだが、自分では凄いだろうと思っている様子が、何ともみっともない。 しばしも滞(とどこほ)らず、直(ただ)ちに行なひゆくものなり。 『徒然草』の面白さは、受験勉強のお題にされるだけではもったいないものです。
18特に、山奥に引きこもっているはずの法師が、世間話を我が事のように尋ねたり聞いたりして、どうしてそこまで知っているのかと思われるほどに、周囲に言い散らかしているようだ。
徒然草「木登り名人」の現代語訳 徒然草「木登り名人」の 原文です 高名の木登りといひしをのこ、人を掟てて、高き木に登せて梢を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに、軒たけばかりになりて、「過ちすな。
以上、吉田兼好『徒然草』の冒頭でした。
」と申しましたところ、 木登り名人が「そのことでございます。
訳文:すらすら読める徒然草(中野孝次) 四季には何といっても春夏秋冬というきまった順序がある。 今生きている人の手紙でさえ月日がたって、これを貰ったのはいつどんな時だっただろうと思いをめぐらすうちに、しみじみとした気分に引き込まれる。 なんて人間は愚かなんだろう。
12四季はなほ定まれる序(ついで)あり。
その年齢を過ぎると容姿の衰えを恥じる気持ちがなくなり、平気で人前に出て社交的にふるまおうとする。
万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。
沖のほうまで続く干潟は遠い(から潮が満ちるのはまだまだだだろうと思う)けれど、(いつの間にか)磯のほうから、潮が満ちるようなものである。
その中に、世捨て人の聖法師が交じっており、案内を申し込み、門口でたたずんでいるが、そのようにしなくても良いのにと思う。 そも、参りたる人ごとに、山へ登りしは、何事かありけむ。
11荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひ、しめやかにうちかおりて、忍びたる気配、いとものあはれなり。
そんな時代から距離を置き、兼好は徒然草の執筆に励んだのです。
少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。
何事につけてもその道を心得ている者は尊いものである。
それから、第一段「いでや、この世に生まれては」となります。 無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、逃れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。
2ある時、武家屋敷の中に人のいない隙をみはからって、敵が襲い来て囲み攻めた所、館の内に武士が二人出てきて、命を惜しまず戦って、皆追い返してしまった。
しかし、病にかかる事、個を生む事、死ぬ事だけは、時機(のよしあし)を考え(てくるものでは)ない。
をば、さのみ目にて見るものかは: 月や花は、ただ目で見なければというものでもないのではないか。
『徒然草』の76段~79段が、このページによって解説されています。
この説によれば南北朝の争乱以前に中年期の兼好が著したことになるが、異論もある。 そのほどはさじきふようなり」とて、おくなるやにて、さけのみ、ものくい、いご・すごろくなどあそびて、さじきにはひとをおきたれば、「わたりそうろう」というときに、おのおのきもつぶるるようにあらそいはしりのぼりて、おちぬべきまですだれはりいでて、おしあいつつ、ひとこともみもらさじとまぼりて、「とあり、かかり」とものごとにいいて、わたりすぎぬれば、「またわたらんまで」といいておりぬ。 また、野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。
一口解説です。
江戸時代になると、版本が刊行され、加藤磐斎の『徒然草抄』(1661年、寛文1年)、の『徒然草文段抄』(1667年、寛文7年)といった注釈書も書かれていく。
兼好法師 兼好法師 けんこうほうし の姓名は、卜部兼好 うらべかねよし といいます。
雨の夜に月のことを思い、家に閉じこもって春の行方を知らないのだって、。