不違農時、穀不可勝食也。
泄泄とは猶沓沓(とうとう)の如きなり。
ただひやつぽならざるのみ。
なのに、私は、まだただの村人に過ぎない。
二子を生む。
農時を違へざれば、穀は勝げて食ふべからざるなり。 〔国内〕• 西は空桐(山名)に行き、雞頭(山名)に登った。
己一人が悟って家庭と天下国家への責務を取らないのは、正しいとはいえない)。
のうじをたがへざれば、こくはあげてくらふべからざるなり。
[口語訳]孟子がおっしゃった。
諸橋轍次『論語の講義 新装版』大修館書店、1989年• 爪牙の以て食を爭う無ければなり。 服装でいえば麻服と絹服である。
苟為後義而先利、不奪不饜。
いにしえの時代、民は四階層(士・農・工・商)であった。
姓は公孫、名は軒轅と曰う。
掲載ページ :1~360• 「如」は仮定 もし の意で、「若」にもやはり同じ意味がある。 )」と。
是に於いて軒轅乃ち干戈を用うるを習い、以て不享を征す。
漢文のお作法のほとんどは、デタラメだから真に受けない方がいい。
そこに聖人なる者が現れて立ち、、 中華文明は歴代の聖人たちが民に文明を教えたことによって始まった、という神話的歴史は『孟子』や『史記』に表れている。
善行は自分に何の利益ももたらさないという懐疑主義に立ち、自分の快楽を追及する以外に正義はない、という極端な利己主義を主張した。 本章に従うなら、身内を見捨てないのが仁で、主君をないがしろにしないのが義。
17隣国の政を察するに、寡人の心を用ふるがごとき者無し。 その孫で、昌意の子の高陽が跡を継いだ。
いろいろな器具があっても、使わせない。
第二に、『大学』のいわゆる八条目からの引用が行われて、後の宋代に『大学』が聖典化される道を開いたことである。
母の逸話「孟母三遷」と「孟母断機」が有名 孟子の母は今でいう教育ママだったとされ、それにまつわる逸話があります。
萬乘之國弒其君者、必千乘之家。
害至りて之が備(そなえ)を爲し、患(うれい)生じて之が防(ふせぎ)を爲せり。 。
填然、鼓之、兵刃既接。
「寡人」とは、もとは、徳が少ない者、の意で、諸侯が謙譲して第一人称として用いた。
中原に位置したため文化が開けていた反面、戦争に巻き込まれやすく、 B. 今其の法に曰く、必ず而(なんじ)の君臣を棄て、而の父子を去り、而の相生養するの道を禁じ、以て其の所謂(いわゆる)清淨(せいじょう)・寂滅(じゃくめつ)なる者を求めよ、と。
副題 :-やさしい現代語訳-• 中でも性善説は「吉田松陰」に大きな影響を与えることになります。 之を以て天下國家を爲むれば、處(しょ)する所として當(あた)らざるは無し。
6『漢文大系(一)大學説・中庸説・論語集説・孟子定本』冨山房、1972年• ふきんときをもつてさんりんにいらば、ざいもくはあげてもちふべからざるなり。
詩には、「戎狄(じゅうてき。
四端とは「仁・義・礼・智」のことで、仁は人を憐れむ心、義は自分の不正を恥じる心、礼は人に譲る心、智は是非(正しいことは良いこと、不正は悪いこと)の心、をそれぞれ表します。
それは上記した、「萬取千焉…不為不多矣」の解釈も同じで、『孟子』もまた儒者のゴマすり・デタラメや、漢学教授のコピペ・事なかれ主義を免れていないようだ。
「察」は"詳しく考える・観察する"。
仁の安らかな家を留守にして住まない、正しい道を捨て去ってそれに依拠しない、何と哀れなことであろうか。
加地伸行『論語』(講談社学術文庫)講談社、2004年• 研究報告書・巻・号 :(図書)よくわかる孟子 -やさしい現代語訳-• 請以戦喩。
引用した書名の略称については、 何 ( か ) 晏 ( あん )等『論語 集解 ( しっかい )』は『集解』、 皇侃 ( おうがん )『論語 義疏 ( ぎそ )』は『義疏』、 邢昺 ( けいへい )『論語注疏』は『注疏』、 朱 ( しゅ ) 熹 ( き )『論語 集 ( しっ ) 注 ( ちゅう )』は『集注』と表記した。
前漢代の儒者においては、孟子よりも荀子の影響力が圧倒的であった。
学校教育の場では「 曰 ( い )ハク」に統一されているが、本来は「 曰 ( いわ )く」「 曰 ( い )わく」のどちらでもよい。
刑罰を始めて、人々から粗暴な者を取り除いた。
仏書・道書を焼き捨てるのだ。