ふと振り返ったら、長女が八つ墓村状態で、慌ててひっくり返した記憶がある。 そして脱走するまでの1か月の間で、少なくとも50人から60人は死んでいったとも供述している。
20岡田更生館自体は当時、戦争によって行き場のなくなった人など、浮浪者が身を寄せるための施設としてGHQの指示で建設されました。 岡田更生館事件 この事件の現場となったのは岡山県真備町岡田地区にかつてあった県立の公的施設『岡田更生館』。
北川の話の内容があまりにも荒唐無稽に思えたのも事実で疑いの心があったのは想像に難くはないだろう。
地元住民への聞き取りをはじめ、国の調査記録や元県職員の手記を収集して取材を進めた。
記者2人は浮浪者のふりをして岡田更生館に侵入。
1か月で亡くなる人の数が50人を超えていた!と言われてますからね。
( 2020年11月) このような実態は、入所者の一人が脱走に成功してにリークしたことをきっかけに、1949年2月以降、徐々に明るみになっていった。
収容者の素質にもよるが、管理指導者側にも難点があった。
1966年に退社し大森国際研究所を設立• 主に成人男性を収容していましたが、中には子供や乳幼児、女性の収容者もいて、ピーク時には500人を超える収容者がいたそうです。
潜入が決行される前、川又検事正は(国警)の隊長・大石に電話して岡田更生館の不正を問い質すも、大石は過去に行った2、3回の調査の結果を踏まえて不正を全面否定した。
13倉敷市真備町地区で戦後間もなく、県内の路上生活者を強制収容し、劣悪な環境下で70人以上の死亡につながった「県立岡田更生館」。 犠牲者が焼かれ埋められた場所 に 命尊碑(いのちたっときひ)と刻まれたを立て、とには慰霊の法要が行われて来た。
元は製薬会社が昭和初年に建てたものだが、太平洋戦争中に閉鎖され、県が買い取り修練所を開設。
本当ならば、とうに大問題になっているはずだ。
, pp. 時折入る警察等の行政の視察でも全く問題は認められなかったが、一度、逃走した収容者が九州のの警察に訴え出た事があった [ ]。
まず岡山県庁で話を聞くと、その施設への悪い評判は皆無。 事前調査 [ ] リークした元入所者は、放浪詩人・北川冬一郎 と名乗る男である。
47年、38歳で社会部長となる。 そして収容者に対して自分が悪いことをしたか?を問うた所、誰も館長を責める者はいなかった。
すぐさま全館に脱走を報せる非常警鐘が鳴り 、十数名の指導員によって大森と小西は捕らえられた。
その中には犯罪に手を染める者もいて、住人が被害に遭うなど治安の悪化が懸念され、フラナガン神父の勧めもあり、GHQの軍政部はそうした問題を一掃するよう命令を出しました。
こうした暴行は時として深夜までおよんだと言われている。
すぐさま記事の執筆にはいり、大見出しで全国版に新聞を出した。 つまり、収容定員を超過していることが最大の問題だとの認識を示した。
このような観点は、4月9日の衆議院厚生委員会でも岡山県出身の所属議員・からも言及されている。
これは両名が共産党員の潜入ではないかと疑われたからである (を参照)。
開設の翌年には収容者から成る"更生演芸団"が、に参加して県内巡業を行った。
大森実記者と小西記者の潜入記事で公に。
戦後の収容施設は県内では他に、県立黒崎更生館(現倉敷市)や西川寮(岡山市)など。 ですが、 1955年に施設は廃止となってしまいました。
しかし一週間後には川又検事正が『岡田更生館は監獄部屋であった』と発言。
進駐軍の残飯あさりや窃盗や売春なども行われ治安の悪化が懸念されていた。
施設では十分な食事が用意され、仕事もある。
こうして増えていく収容者たちは過密な部屋にあてがわれ、約半数がに、そしてほぼ全員が重度のに罹患していた。
岡田更生館 1949年、毎日新聞大阪本社に北川という汚い身なりの人が飛び込んできました。 1949年5月10日に開催された参議院厚生委員会の審議では、事態発覚後に岡田更生館を視察した参議院議員・が以下の問題を指摘している。
そうした状況下で行われた館長の横領を「自己の体面利益に関するものと認め得る」と断じた。
『現代岡山県社会福祉事業史』現代岡山県社会福祉事業史編集委員会編、、1983年5月、146-153頁。
この時点で大森は、放浪詩人の北川が小説のように創作した話ではないかと疑念を抱いていたと証言している。