中川 重政。 となみ野.jp|散居村とチューリップの里、砺波へようこそ|砺波野を知る|増山城最後の城主中川宗半(光重)と蕭 老松邦雄

中川重政

同年閏3月前田利家が死去し、その年8月には前田利長が金沢へ帰還した。

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理由は領地が隣接する長光寺城の柴田勝家と利権を巡ってトラブルを起こし、信長の怒りを買ったらしいです。 後、豊臣の姓と羽柴の氏を授けられている。

母衣衆

それらの一部は、平成2年刊の『砺波市史資料編 1』に取り上げられているが、系図などについては触れられていない。 その後、永禄13年()に周辺の城に信長がらの残党に備えて重臣を配置した際には安土を任されており、ようやく部隊指揮官の地位に昇ったものと思われる。

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蕭は、将・昌・粧などの字を当てられることもある。

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『中川家系図』『神谷由緒書』『光重列伝』では、慶長16年(1611)2月2日、宗半は隠居領五千石を賜り退老したという。

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文録2年(1593)閏9月12日没。 その後の消息は不明。

中川重政とは

信忠軍団はその信忠をトップとして、主に尾張衆と美濃衆から成っています。 『前田家所蔵斯波系譜』に拠れば、初め織田駿河守、または越前守と称す。

家老のをはじめ、 のちに方面軍団の指揮官となったやらがいます。 続いて翌年には、を奉じて上洛を果たしています。

中川光重

出家後は宗半、巨海斎と号したため、 中川宗半の名で知られる。 最終的には、前田利家が能登、佐々成政が越中、佐久間盛政が加賀半国を与えられ、それぞれがさらに与力を付されています。

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中川重政・津田盛月の弟。 吏僚も兼ね、他の吏僚役の馬廻とともに携わっていた。

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しかし、慶長4年(1599)3月、『前田利家遺言状』に 「宗半娘」とあり、そのころまでには宗半が通称となっていたようである。

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「ふくたむらかんぬしするか」宛てのも のは「ふんろく二ねん十月十四日」、差出は「ますやまさいしやう」で花押が書かれている。 この戦いで右股を負傷する。

中川光重

のち中川治郎左衛門伊治の養子となり、中川八郎左衛門と称したとされる。

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妻:不詳• その後しばらくは、馬廻兼小部隊指揮官を務める。

中川重政

(『三壷記』ほか)文書では、慶長8年(1603)6月16日付の『井 波山相論につき裁許状』では長九郎左衛門尉連龍らとともに巨海斎宗半の署名があり、さらに砺波市鹿島の河合文書の中の9月16日付(慶長 10年か)『苗加村と野村嶋野境相論につき裁許状』では、横山大膳職長知らとともに巨海斎宗半の署名がある。 天正元年(1573)8月13日の朝倉追撃戦には、他の馬廻と共に目覚しい働きを見せている。 初名を祐之。

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元亀3年(1570)6月、小谷城攻めの功により、信長の一字を賜り、「祐之」から「長久」に改めるという。