今後も色々彼らのすることを見て来て、書き残してほしい」と言ったことがある。 テンジン=天人はウメガイとともにサンカを証明するもので、ウメガイよりも大切にされる。 中島貞夫監督の映画「瀬降り物語」(85年)では、山々を流浪する孤独な生活を萩原健一が好演した。
柳田國男もそうです。
サンカに関する初出史料は安芸国(広島県)の庄屋文書(1855年)とみられる。
「こいつ食って、自然薯掘ってくって、もう一つ松の実と地蜂の子、喰や病気なんかしまへんで・・・・・」と、威張ってみせたりするのには困った。
国学の平田篤胤という偉い人が「日文(ヒブミ)」というものを言い出して、漢字、仮名の外に「日本には昔から整文字として伝わっていたのだ」と言い出して残したものがあるが、それは「日文」というもので、こんなものだ・・・と吉田先生が教えてくれたことがある。
私だって利君だって家の外でブランコなんか作ったら叱られるにきまっとるし、第一、親がブランコ作りに先にたってやってくれるなどということは、絶対になかったことだから。
( 2020年10月) 「サンカ」という言葉が現れたのが、末期()の文書が最初である。
また「山歌(サンカ)」というタイトルは山にいるとすべての音が生命の歌に聞こえるような、そんな山の空気を映画で感じてもらえればと、そんな願いも込めてつけました。
「石亀って平たい身ではなしに、少し細長いな」と感心してみていると、小父さんは、すぐその甲羅を受け取って横向きに立てると、また山刀を「たんっ」と、打ちおろす。
明治以降、官憲にとって監視や注意が必要であったのは、その犯罪性から移動範囲が大きかった人びと全般であり、その際に用いられたのが「サンカ」という概念であったという主張もある。
19巧いなどと云って見ていられるものじゃない。
それにもう一つ、ばかに足が早い。
山窩本人がいうことだって信じられないという意味では、こいうネタを風評に頼るというのは、間違いの始まりでもあると思いますよ。
校長先生も批評の中に「それこそは、わしの唱導する「行動教育」そのものだ。
その生活実体は十分につかめてはいないが、生産技術や社会関係、信仰といった生活様式が平地民とやや異なり、平地の住民からは異端的に見られていた。
娘が藤縄の、もう一本の方を差し出す。
本作品の役作りのために山を走る「トレイルラン」をはじめ、身体能力を高めた。
独特の宗教を持っていたという証拠はありません。
四国高松地方で三界に家なき者のことをサンカまたは サンガイ というのと同じだとか、ジプシーの故郷といわれる西インドのサンガタの住民サンガニに語源を発するとかという説もある。 現代の山窩 かつて、山で生活し自分たちの独自の文化と社会を形成していたサンカが存在したのは確かな事だが、現在はとなると、「いる」「いない」で意見が別れている。
サンカを好奇の眼で見る、あるいは研究の対象としてのみ見ようとする試みの氾濫する中、サンカに向けられた氏の眼差しの温かさは、その人柄を反映していることを窺わせる。
BEAMS RECORDS• 米を食わないサンカらしく、米飯がなく、よもぎソバがメインの料理である。
その縄はぐんと引っぱると隣の竹の元の方にくくりつけられて、はね上がらんようになる。
矢切止夫も「原日本人の系譜をひくサンカにはシノガラという相互扶助組織があり、その組織の元締たるオーモト(アーモト)様はスイスに存在していた」「アメリカ政府はオーモト様と連携し戦後の日本の政体について、天皇制を廃止し、日系アメリカ人を母体としたオーモト様指揮下のサンカ政権を作ることを計画していた。
則夫は省三に強く惹かれ、やがて彼の母・タエばあ(70)と娘・ハナ(17)とも交流を持ち、蛇やイワナを獲り食べるという、自然の中での体験を通し改めて「生きる」ことを知る。 (のち、文春文庫に収録、2004年11月刊。
『これらの深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥されられ・・・その大部分は死に絶え、乃至は平地に下ってわれわれの文明に同化したでもあろうか、もともと敵である。
三角は、新聞記者という経歴から実録小説のような体裁のスキャンダラスな山窩小説を執筆して一世を風靡した。
今でも確かな資料は少なく、サンカは歴史の波に飲まれてしまったとも言えます。
彼らに関する考察は、別稿に委ねるとして、サンカ文字である。 しかし三角は商業小説家であり、「サンカ小説」の内容は娯楽性を追求した完全に創作の人間ドラマである。
8拠点(天幕、急ごしらえの小屋、自然の洞窟、古代の墳遺跡、寺等の軒先など) を回遊し生活しており、人別帳やに登録されないことが多かった。 「あっ・・・・いっしょんとびやんのか?」と、思ったとたんに、あの小娘は上手に、その輪にのって、一つ、二つ、跳んでみせた。
川漁にたずさわる集団も多かった。
1984年11月 生産能率向上のため、三条市塚野目字姥池1304-1にアセンブリ工場を新設。
現在もそれは続いている。
また「ミナオシ」、「テンバ」と呼ばれるサンカは、かたわら、の製造、行商、修繕を主な収入源としていたとされる。 ・・・・・丁度、三人は出かける用意がすんだ所だったのでよかったなと思った。
箕 米などの穀物をより分けたり運んだりする、農作業には不可欠の道具。
生活=生命=いのち、いきる力、ねがい。
一説では、「サンカ」は自分達の呼称を仲間と言う意味で「けんた」と称し、河原にテントを張って生活する一団を「せぶりけんた」、一定の宿所を持っている者を「どや付けんた」と言った とする。